世界1位営業女子が教える幸せな共働き 

残業なし、有給100%消化、育休3回、欲張りに稼いで家庭時間命 外資系アラフォーママの軌跡

夫にも育休を取ってもらう① 超お堅い日系大企業で初めての男性育休取得者

私は夫には付き合い始めた頃から、妻である自分も稼ぐし一生働くから子育ても、家事も一緒に半々でやっていきたいと伝えていた。デンマークみたいに、パパも積極的に家事育児参加して、ママもキャリアを続けているような、そんな働き方をしたいと、常に熱弁していた。 

 

夫は穏やかな性格で、良く話も聞いてくれるし、そうしようと同意してくれていた。私はこの人と結婚して、共働きをしながら、一緒に協力して家庭を築いていけると信じていた。

 

子供が産まれても、産休育休はお互いに半々でとろう。稼ぐ以外の父親業もしてね。私の両親は離婚しているし、父は何もやらない人だったけど、稼いでいるだけで威張っていた。私はもっとお父さんと一緒に時間を過ごしたかった。私も稼ぐから、あなたには、ぜひ父親として子供との時間を大事にしてほしい。長時間労働でくたびれて過労しないでね。お互いに短く濃く働いて一緒に子育てしようと、事あるごとに話していた。結婚前も、そして結婚後も。 

 

ちなみに夫は九州男児で、2人兄弟の長男。義理両親は九州の田舎育ち。義父は、高度経済成長期の典型的な昭和サラリーマンで、転勤族で家には殆ど居なかったらしい。祖父母と同居で、家の事は全てお義母さんがされていたようだ。義母は専業主婦で家事も得意、家はピカピカだ。大黒柱が義父、その他は義母が担う、そんな感じだった。義父は家の事は一切してこなかった典型的な九州のお父さんで、家事は一切出来なかったようだ。義母は夫達が中学の頃からパートで働き始め、義父が退職後の今も続けている。現在の義父は少しずつ義母から家事を引き継いで、やっている。

 

義理両親は私の両親のように不仲ではなく、穏やかで仲の良い夫婦である。義母が何から何まで家の事を全てやるので、夫を含む息子2人は、家事を一切やる必要もなく育ったのは確かである。 

 

そんな夫に、自分の母親とは真逆の一生働きたい、なんなら夫と同じだけ稼ぎたい、手を緩めるつもりはない私と結婚するに当たり、共働きの覚悟があったかというと、今思うとなかったのではないかと思う。そこまで深く考えていなかったようだ。ちなみに夫は私の元気で快活なところを好きになったらしく、一緒に暮らしたら楽しいかなと思ったらしい、私と同じ熱量で共働きをしていこうとは思っていなかったようである(後日談)。

 私にとっては共働きを一緒にやっていける夫というのが、非常に人生において重要なポイントであった。しかし夫はいざとなれば、妻である私は異常な強い母性に目覚め、面倒な事を基本は私が引き受け、家事育児の主軸はあくまでも私になり、自分はサブとして出来る範囲でやればいいと思っていたようである。何だよそれ。。(実際にこのようなセリフをこの10年で何度も言われることとなる。) 

 

夫は結婚した頃勤めていた職場では、前述のとおり長時間労働だった。

rikarin.hatenadiary.jp

 夫はしかしながら、私が出産する頃には初めての転職をしていた。給与も上がり、社内制度も整った職場ではあったが、なかなかまたハードな職場だった(涙)

 

私が実際に妊娠した後、私は初めての妊娠でわからない事だらけ。夫の帰宅は遅く、頼りたい親は近くに居ない。近くに住む姉は、フルタイムで働いていて日常的には頼れない。

 

また当時、実母が脳出血を患い、3か月の入院。急性期を終えてリハビリ病院に入院中で、私は毎日仕事帰りに面会に行っていた。

 

育休については、夫と結婚前の約束通り、一緒に取ろうと約束。子供が1歳になるまで私が育休を取るが、1年後、長女が1歳の頃に復帰すると会社には伝えていたため、万が一保育園に入れない時は、そこから夫に育休を交代するという流れで夫は同意をしていた。

保育園のそばに引越しもした事だし、それがプラスに作用して保育園には入所できるだろう、だからなんやかんや言いながら夫が育休を取る必要はなくなるのではと、根拠なく私たちは思っていた。 

 

無事出産を終え、(10年前にはまだ珍しい、無痛分娩だった)、4日で退院。初めての赤ちゃんは女の子だった。退院直後から1人でマンション育児。母は退院していたが、右半身に麻痺が残り、これまでの日常生活が送れない事、バイオリンを以前のように弾けなくなってしまった事で、演奏家としての活動に制限が出た現実について、とても落ち込んでいた。高度機能障害(※)が酷く、毎日泣いてばかり。

母は新生児、孫に会ったら元気になるかと思っていたのだが、実際は違った。容態はひどく、私が母を頼る事はもちろんできず、母は非常に不安定だった。

脳出血脳卒中後の情動障害の一つ。麻痺が残ったり日常生活が送れなくなることで、絶望して鬱ぽくなった。

参考:感情障害(人格情動障害) - 高次脳機能障害情報のポータルサイト

 

私は寂しかった。育児書もなく、わからないことだらけ。しゃべらない赤ちゃんと2人きり。よく主婦の友達に電話をかけては、新生児のお世話でわからない事について、聞いて回った。妊娠中は仕事ばっかりしてて、妊娠学級などの市民講座にもあまり参加しておらず、私は赤ちゃんについての勉強不足だった。妊娠中から自分の事しか考えておらず、出産の痛みが怖いから無痛分娩については調べていたが、赤ちゃんの事は何もわかっていなかった。私は育児書すら準備をしていなかったので、産後に仲の良い友人がプレゼントに送ってくれた事はとても嬉しかった(涙)。

 

幸い私は無痛分娩のおかげか?ぎりぎりまでよく歩き働いていたからか?身体は元気だった。夫が出社したら、日中一人なので、産後1週間から普通に抱っこひもに娘をくるんで外出して、買い物やクリーニングに行く毎日。

 

産後10日後には、新しいマンションへの引っ越し。引越しは週末にし、夫はもちろんの事、姉夫婦も手伝ってくれた。

今思うと週末だけでなく、週明けも夫に休んでもらえるよう頼れば良かったと思う。。何をあんなに1人で抱えて頑張っていたんだ私。しかし夫は職場の人たちに非常に気を使い、有給取得を非常に嫌がる人だったので、当時は難しかったのだけど。

 

引っ越し後は段ボールに囲まれて、新生児と私の二人きりで葛藤する毎日。たまに働く姉が仕事合間に家に寄ってくれたりしていた。

産後の身体を休めることなく、普通にこれまで通りの家事を行っていて、自分の食事の世話から、夫の弁当まで作っていた。当時はまだ今ほどインターネットショッピングが当たり前ではなく、食材の買い出しも普通にスーパーに出かけていた。

 

夫は帰宅は遅かったものの、出産時は立会をし、また退院直後から夫婦で一緒に子育てをする事になったので、最初からおむつ替えも、ミルクをあげるのも、お風呂も一緒にやってくれ、順調に育児経験を積んでもらい、パパとしてのキャリアをスタートした。

 

今思えば私は若くて元気だったのと、誰かに頼る事を思いつかず、夫婦二人で全てやらなければならないという強い思い込みを持っていたと思う。また、出産して母親になっても、今まで通り、やりたい事も諦めたくないし、変わりたくないという思いも強く、弱みを見せたくない、見せられなかったのだとも思う。 

 

色んなネガティブな状況はあれど、一番幸運だったことは、娘は本当に良く寝る子で、おっぱいさえあったら大丈夫な子であったことだった。一度に寝る時間も長く、朝までぐっすり寝ることも頻繁。寝かしつけも大変でなく、ベビーベッドに置いたら、泣いてもそのまま寝付いてしまう、楽な子だった。初めての子育てにもかかわらず、じきに私はそんなに悲壮感もなく、大変と思う事はそんなになかった。

 

引越しをした事で、色々な買い物施設にもアクセスが良く、また友達も来やすい場所だったので、それもとても良かった。

 

娘が1歳を迎えるにあたり、予定通り、保育園の入所申請を行った。私の住んでいた自治体は地方の中核市で人口は50万人近く。それなりに都会で、都心部にアクセスも良く便利で人気の街だった。そのためか保育園もなかなかの激戦区で、特に0歳1歳については入れないと言う事だった。

 

私は保育所入所申請にあたって、何か差別化をするべく、第一希望の保育園に入りたい希望で隣に引っ越してきましたと、備考欄に書き入れ、熱意をアピールしたつもりだった。(今思うと、特に加点にもならず、意味はなかった模様。)

 

しかし、なんと、わざわざ引越しまでしてきたのに、あっさり娘の保育園は入れなかったのである。娘は早生まれで、年度途中の申請であったことが大きな理由であると思う。当時は知らなかった。

 

仕方がない、夫にいよいよ出動してもらわないとだ。